特許コラム

2011年5月16日 月曜日

キリスト教と法律と

 「欧米人の発想の根底には『キリスト教』があって、欧米で発達した法律の理論は『キリスト教』が前提なので、日本人には相容れない部分は非常に大きい」
ということを私はよく思います。
 
 こういうことを思うのは、欧米の小説を読んだり映画を見たりしたときの、裁判の場面ということが多いです。
 
 もう少し具体的な話をしますと。
 キリスト教は「絶対的な神」が存在することが前提なので、
「裁判においても絶対的な神の意思が働くので、絶対的に正しいほうが裁判に勝つはず」
ということがあるような気がします。
 
 ここが欧米の人と日本人の考えの根本的に違うところ、という気がします。
 現実の裁判においては、「どちらが正しいか完全には決めきれない」ことが非常に多いです。
 このような場合でも、「訴訟で負けた」場合には、「負けたということ」が神の意思であって、罪があるということになってしまうのです。
 
 この辺り、日本人にはまったく相容れない発想だ、と思いました。しかし、その後、色々と本を読んだりするうちに、このような発想は欧米では「当然」のことらしいですね。
 だからこそ、キリスト教の人は「現世での成功」に拘るのだ、ということも読んだ記憶があります。(現世での成功こそが、自らの善の証明であるという)
 
 でも、そう言われてみると、近代の欧米法での「裁判」というものは、こういう思想的前提がないと成り立たないことであるような気がするんですよね。
 裁判なんて人間がやることです。しかも、民事の訴訟ともなれば、「どっちが正しいと判断しても理屈は合う」というケースがほとんどです。そのような場合に、裁判で「こちらが正しい」と判断して、それを全員が受け入れるには、「全能の神」の存在を前提にして、「神の意思」と考えないと、難しい気がします。
 でも、裁判の結果を「神の意思」と考えるのは日本人にはかなり難しいこと、という気がします。
 私も知ったような調子でこんなことを書いていますが、感覚的には欧米の感覚はまったく理解できません。
 
 では日本はどうなのでしょう。
 伝統的な日本社会での「裁判」というと「大岡裁き」が思いつくわけです。でも、冷静に考えると「大岡裁き」というのは、「善悪」を判断するというよりは、「丸く収める」ことに主眼が置かれているように思います。三方一両損の話なんかは、完全にそうですよね。
「誰が正しいとか間違っているとか決める必要はなくて、ただ全員が納得する方法を考える」という観点のように思います。
 
 こういう思想的土壌を持つ日本に、明治以降、「絶対的な神」が存在することを前提として「善悪」「勝ち負け」をくっきりと決めてしまう、欧米の法律体系が適用されているわけです。
 どうにも、収まりが悪い感は否めません。
 
 現実に、裁判における法律の考え方が「身に馴染まない」気がしてしまうのは、こういう欧米の法律の根本にある「キリスト教的発想」が日本人的発想と馴染まない、ということがあるのではないか、と思います。
 
 今更、法体系を変えることができない以上、いつまでも「普通の人の日常感覚」と「訴訟における論理」が合わない、というこの感覚は消えないでしょう。そして、日本人が「法律」とか「裁判」というものと器用に付き合っていける日はなかなか来ないのかもしれません。
 むしろ、「法律」とか「裁判」とはこういうもの、と割り切ってしまい、この違和感を「仕方のないもの」と受け入れるしか手はないのかもしれません。



投稿者 八木国際特許事務所

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