特許コラム
2011年3月28日 月曜日
エラリー・クイーンのこと
私は、かつて、かなりマニアックな推理小説ファンであったことは、本ブログでも少し触れたことがあります。今は全くといっていいほど、小説を読まないので「引退」状態ですが。
で、推理小説マニアにファンが多い作家といえば、エラリー・クイーンという作家がいます(今もそうなのでしょうか? とりあえず、私が大学生だった当時、コアな推理小説マニアはクイーン好きと決まっていたような気がします)。
ところが、私はどうしてもエラリー・クイーンを面白いとは思えず、好きになれませんでした。最近、全然関係ない部分で、「私がクイーンを好きになれない理由」に気付かされた気がしたので、今日はその話を。
なお、以下の文章ではエラリー・クイーンの「チャイナ・オレンジの秘密」(ハヤカワ文庫)のネタバレがありますので、未読でネタを知りたくないという方は読まれないようにお願いします。
まず、なぜ「凡作」と言われる「チャイナ・オレンジの秘密」を俎上に上げるかというと、私は好きでないゆえに、エラリー・クイーンの小説を数冊しか読んでいません。そして内容をある程度覚えているのはこの作品だけなので、この作品を取り上げるわけです。
この小説について読んだ後で思ったのは、
「一応理屈は通っているけれど、全く納得できない。納得行かないのに、理屈だけが通っているのが気持ち悪い」
という思いでした。その思いがあまりにも衝撃的だったので、高校生のときに読んだ本なのに、未だに内容を覚えているという。
あの作品では(記憶はあやふやですが)、確か、犯人は「殺人をする」と決めてから実際に殺人をするまでの間、かなり短時間のうちに、複雑な密室トリックを考えて実行し、更には部屋のあらゆるものをあべこべにする、ということを思いついてそれを実行に移した、という内容だったような記憶があります。
そんな複雑なこと、短時間で思いつくわけがないし、更には、そんな面倒くさいことをしなくても別の手があるだろう、と思うわけです。
何が言いたいのかというと、発想が「頭でっかち」なのです。
理論は合っている。でも、世間の常識に沿って考え合わせれば、「そんなことは絶対に起こり得ない」という状況に陥ってしまっていると私は思ったのです。
それは「論理的である人」が陥りやすい罠であるような気がするんですよね。
要は「理論があっていれば、間違っているはずがない」という思い込みといいましょうか。
ある論理から導かれた結論が現実と一致しないのなら、その理論か、あるいはその理論を導く上での前提の設定に間違いがあるはず、と私は思います。で、エラリー・クイーンの「チャイナ・オレンジの秘密」は、完全にその状態に陥っている小説、という気がしたのでした。だからこそ、クイーンの作品のなかでも「凡作」と言われるのでしょうが。
きっとクイーンのできのよい作品は、「頭でっかち」が目立たないのでしょう。だから、多くのファンを獲得できたのでしょう。
でも、私は最初にこの作品で「頭でっかち」と思ってしまったので、その時点でもうダメでした。実際、その後「名作」といわれる「オランダ靴の秘密」を読んだときも、「チャイナ・オレンジ」を読んだ時のその思いが頭に残っていたせいか、ちっとも面白いと思えませんでした。
「人間の営み」という複雑なものを扱うとき、「論理的であること」は無力であるどころか、捉われすぎると有害になることもあると私は思います。「論理的」であることを絶対的に信望するのは危険なことだと私は思います。エラリー・クイーンの小説の「論理性」というのは、大変美しいものだとは思うのですが、美しいゆえに危険、とも思います。
最近、「資本主義はなぜ自壊したのか 「日本」再生への提言」(中谷巌著 集英社文庫 2011年1月)を読んでいて、この中で出てきたとある一節を読んでいて、ふいにこのことを思い出したので、ネタにしたというわけです。
なお、こちらの本も読み終われば、ネタにしたいと考えています。
投稿者 八木国際特許事務所