特許コラム
2010年10月18日 月曜日
勉強はどれくらい重要なのか?
勉強というのは、とても大切なことです。特に、知財という特殊な分野では知識を持っていることが重要になることもあります。
しかし、「よく勉強をする」ということは本当に立派なことなのでしょうか。
なぜ急にこんなことをブログに書こうと思ったかというと、少し調べごとがあってネット上の弁理士さんのブログを沢山読んだりするなかで、これは如何なものか、と思うようなものを幾つか読んだこと、特許庁から弁理士宛に届いた弁理士の育成のあり方に関するアンケートに答えていて、ちょっと……と思ったからです。
学校での勉強や試験勉強としての勉強というのは、「正解がある世界」で知識を増やしていくこと、と私は思っています。学校での勉強なんてそんなものだし、弁理士試験の勉強というのも「正解がある論文で点数をとる」ための作業です。
でも、弁理士として仕事において、「正解がある」ことは絶対にありません。
特許性のある発明というのは、「人類の歴史上、初めて完成されたもの」です。ですから、それを文章に書き表す作業もまた、「世の中で初めてやること」です。そんなことに「正解」があるわけがありません。発明の把握にしても、Aという観点から把握する場合とBという観点から把握する場合とで、同じ技術が全然違った把握になることも多々あります。
それは、どっちが正解と言えるようなものではありません。
そんななかで仕事をするとき、Aという把握をするのかBという把握をするのか、どっちかを選ばなければ「ならない」のです。そういう「正解がない」なかでの選択を日常的に行う仕事において、「正解を探す」というクセが身に染みつき過ぎることは、決して良いことではないと思います。
正解のないことについて決定をするとき、自分の経験と勘を信じて決めるしかありません。後になって権利化や侵害事件になった局面で、その決断が誤りだった、と責められる場合もあるでしょう。
しかし、それでも、何かを選ばなければならないのです。後で責められる可能性から逃げてはいけないのです。
正直に申し上げて、弁理士のなかにもそういう「決断」から逃げて、高みから批評家のように人の仕事を批判したり、難しい理論を語ったりする人がいます。個別の案件ごとの背景を無視して、背景の異なる審査基準や判決にあてはめて、形式的な処理をしようとする人もいます。
そういう人は沢山の勉強をしているのかもしれません。けれども、そういう人が「実務家として一流の弁理士」になることは絶対にない、と思います。(大学の先生等をされているのであれば、「理論家として一流」になれるかもしれませんが)。
経験と勘というのは、沢山の難しい決断を繰り返すことでしか身につきません。そうである以上、「勉強をすれば一流になれる」という考えは非常に危険だと私は思いますし、「教育」とか「研修」で教えられる程度のことなんて重要なことではない、とも思います。
断っておきますが、「だから弁理士は勉強なんてしなくてよい」と言いたいわけではありません。弁理士は常に勉強していることが必要とされる仕事です。
しかし、「勉強をすれば、それだけで一流の弁理士になれる」とか「沢山の勉強をしたことで経験と勘も身についている」と思っている人がいるとしたら、それは大きな誤りだと言いたいというだけのことです。
投稿者 八木国際特許事務所